幕末、江戸。


爛熟した果実が腐り落ちる様に、時代は終末に向かっていた。

人々は性質の悪い病に冒され、享楽に耽る。









1. birthday −バースデイ−













久々に店にやってきた。


買う女は一人だけ


愛しても好いてもいない、女。
名はないと嗤って言い放った、他人から見れば不幸な女。


けれど、

とても高価な女。




「何、俺が誰かわかって言っているのか!」
「申し訳御座いません。聡怜様。しかし、ただ今、双樹は召し上げられておりまして」
「分かった。金はいつもの倍出す。だから、終わったらすぐに此方によこせ!」
「そ、そ、それは出来ませぬ。せめて見出しを調えさせてもらえませんでしょうか」
「どうでもいい。別にすぐって抱くわけじゃない。ちゃんと休ませてやるからすぐにまわせ!いいな!!」
「……わかりました」


将軍のお膝元と持て囃される江戸。その地において一番の遊郭に席を置く女はとても美しい。
権力者はこぞって手元に置きたがり、たった一晩の夢を買うにも相当な額を必要とする。
三日、続けて買うだけで大概の金持ちは破産するといわれるほどの金額。
本人は何も興味を覚えず、ただ、笑う。
俺にだけ向ける生きた笑み。
その笑みを見るだけのために、俺は抱きもせずに金を払い、一晩を共にする。


「―――――」


「――――――」






「――っ、」

聞き馴染んだ女の声がした。
聞き馴染んだ女の、知らない声。
ここがどういう場所か分かっている。
あの女がどういう存在かも知っている。
あの女がどうやって生きてきたかも知っている。




そう、思い上がっていたのかもしれない。







「…久し、――ぶ、り…。――御免、ね、…相手はっ、すぐに、は…っ……出、来そうに…な……いん、だっ」

ハァハァ、と肩で息をしながら必死に呼吸を整えている。無理をしなくていいと、言う代わりに女の目元に手を置いた。

「そりゃ、抱かれた後にすぐに抱かれるだけの体力がお前に在るとは思えない」
「ま…ぁ、…ね……。――…一日に取る客は、せい、ぜっ、…い、一人だし。…無い、日もっ、…あったり……する、からっ」
「いい金になるだろうよ。お前が一人買われるだけで」
「――あはははははははっ、そっかぁ」
「そうだ…」
「どうしたの?」
「別に」
「やっぱり抱きたい?」
「俺がお前を抱いたことってあるか?」
「無いね」

ふふふっとおかしげに笑う。まぁ、可笑しいだろうな。都一と名高い遊女を買っといて何もしないのだ。不能と嗤われるかもしれない。

「いつもはね、客の相手した後すぐって事ないから、ゆっくり休めるの」
「わるいな」

「別にいいよ。

話し相手になってればいいんでしょ。



聡怜殿」


それは、現将軍の数多いる子の中で、最も近いと謂われる者の名。


「知ってたのか?」
「店の主人と女将が話しているのを偶然聞いたの。前から粗相の無いようにって厳しく言われてたし。そもそもこの店に幾ら”私”だからと言って知らない男を連れてきて、助けてあげてといって通るわけも無い。叱られたかもしれない。それすらも無くよくやった。と逆に褒められたの。だったら身分の高い人物だってすぐ分かるよ」
「お前は馬鹿だが、聡いな。いつかそれで身を崩すぞ」
「それってどういう意味よ」
「さあな。無い頭絞って考えろ」
「ひどい!」








「あのさ、お願いがあるの」
「何だよ? 叶えれる範囲なら叶えてやれるぞ。見受けでもしてやろうか?」

フルフル、と女は首を横に振る。

「変わった奴だな。ふつう、遊女って身請けしてやるって言えば喜ぶもんじゃねぇのか」
「別に、不自由はないし。あのね」
「ああ」
「名前を頂戴」
「は?」
「違う。えっと、私に名前をつけて」
「双樹って名前があるだろ」
「それって、源氏名なんでしょ?」
「なんでしょ? って聞かれてもな。名前、欲しいのか?」
「うん」
「じゃあ、なぁ、う〜ん…」


悩みだしてかれこれ十分



「そんなに悩まなくても」
「一応せっかく綺麗な顔をしているのにそれに合わない名を付けるのは俺の美学に反する」
「名乗ることなんて無いのに」
「それでも欲しんだろ?」

こく。っと頷く。

「だったらお前にあったやつやりたいし」
「聡怜殿に名を付けて貰えるなんて取っても光栄なことね」
「なぁ、ソレ、やめろ」
「どれ?」

起き上がり、小首を傾げる。さらっと髪がすべる。

「分かって言ってんだろうが! 殿とかつけるな。んで、お前にはちゃんと俺の名前教えただろうが」
「夕瀬(ユセ)だっけ? いいのかなぁ」
「何がだよ?」
「私名を遊び女(あそびめ)なんかに教えていいの?」
「俺がいいって言ったんだから、いいんだよ」
「ふーん」
「なぁ、」
「ん?」
「お前は態度変えるなよ」
「変わらないよ。約束する。そもそも、立場的には夕瀬みたいな人ばっかり相手にしてんだよ。私にとってそれほど凄いことじゃないんだから」
「流石に言うなぁ。都一の女は」
「なにそれ?」
「知らないのか?」
「滅多に店の外には出れないし」
「結詠」
「え?」
「それがお前の名な」

高飛車に笑って言ってやる。

「ゆ、え、?」
「そう、結詠(ユエ)」
「結詠(ユエ)かぁ、どういう意味?」
「さぁ? ただ音で決めたし」

本当の意味はまだ言えない。
そして、恐らく俺が結詠に言う日はきっと来ない。

いや、俺は来て欲しくないんだ。


「オン?」
「めんどくせ。なんとなくだ、なんとなく。気が向いたら理由を教えてやるよ」
「それ、ひどい」
「なんか文句あんのか?」
「ない! すっごく嬉しい。ありがと、夕瀬」


にっこりと笑うその様は、こんな、闇と一欠けらの光の下には似合わず。太陽の白の光の下が似合うと、思う。
仕事用でもない、常で見せるでもない笑顔で。
こっちまで幸せなる。


「どういたしまして」


だから、こっちも素直に笑ってやった。









それは、



平和な、雪が溶け、白梅が咲いた




或る日の出来事。







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