「外に出かけようか」
「え?」
見渡すかぎりの広大な森。
それを一望できる城の上階、その一室で本を読んでいた少女に突然表れた人外の男は事もなげに告げた。まるでそこらを散歩しよう、と言ってるかのように。(実際、この人在らざる男にとって散歩も、彼方離れた地へ行くのも差異はないのだろうが)
「どこに?」
この下? と夏の暑さを少しでも和らげるために窓際に座っていた少女は、窓のすぐ下を指差した。
「いいや。街に出かけようか。毎日読書だけではつまらないだろう」
「今さらだわ。それにつまらくないし」
緩く首を横に振った男は少し、楽しげだ。男に潜む狂気は鳴りを潜めている。
「君が読んでいる本は書庫にあった本だろう。なにか気に入るものでもあったのかい?」
男の住居にあたる大きな古城には、大きさに見合った書庫が存在している。街にあった図書館と規模で言えばさして差異はない。
「あれだけあるんだから、気に入る本の十冊、二十冊はゆうにある」
「それは良かったね。まぁ、本なんて後で幾らでも読める。行こうか」
ほら、と椅子に座ったままの少女に手を差し伸べる。少しの間、少女は手を取ることを躊躇って、再度男にゆすられて手を取った。
正しく今の状態が男と少女の関係を示している。
上から差し出される手。取るしかない下位に座する少女。
諦観を覚えるには少女は若く、がむしゃらに拒むには少女の精神は高潔すぎた。

人外の手を取る。
それしか、もう彼女には残されていない。ぐっと、瞳に憎悪を一度のせて、少女は言う。

「どこに連れて行ってくれるの?」


赤みが買った金色の眸に神がかった美貌。彼女もまた、人の括りで言う人外に属していた。





***



見渡す限りの人の間を、商人の威勢の良い声が通り抜ける。
これほどまでの人も、大規模な市場も見たことのなかった少女は、ただ、ただ、己の手を引く人外の手を頼りに人ごみを進む。
そう、低いとも高いとも言えない少女の視界は人で埋め尽くされて、長身である人外の背が見えない。確かなものは、繋いだ手の暖かさだけだ。
じりじりと照り差す真夏の太陽は容赦がない。流れ、零れる汗。接触点の手の中も汗でびっしょりだ。
「…ごめんなさい」
すれ違いざまに向かいを歩く人と肩がぶつかる。その拍子に、するっと少女の手が人外の大きな手の中から抜けた。
「あ!」
消える標。
見知らぬ土地に見知らぬ人々。とたんに襲い掛かる不安と少量の喜び。

“このまま、人に紛れてあの人外の男から逃げてしまおう。この人ごみだ。紛れてしまえばわからない。”

そう、囁く声に少女の理性(或いは現実的な部分)が首を横に振る。

(逃げてどうする。生きる術など持たない小娘があの男の傍を離れて、一人生きていけるわけがない。取り柄と言える取り柄など、この人外にまで求められた美貌くらいしかない。ここで逃げても、生きるために今度は別の男に足を開くことになるだけだ。
今となにが変わる? 状況を悪化させるだけだ。)

考えているうちにも、周囲の時が止まるわけもなく、人は進み、少女は人に流される。

(どうしよう)

立ち止まって、周囲を見渡す。
その間にも人とぶつかって、不快げな眸を向けられた。どうしようもない。
男と離れる前までは、人とぶつからなかったな。とふと気付く。ずっと下を見て、手を引かれるままに雑踏を進んでいたにもかかわらず全く人とぶつからなかった。手が離れるほんの少し前、距離が開いてしまったときだけだ。

(ああ、あの男は私が歩きやすいように道を作ってくれていたらしい。なんて、)

遅ればせながらにも気づいたところで、迷子という甚だ不本意な状況は変わらない。



***



不意に手の中から小さな手がなくなった。すぐに振り向いても、余りの人の多さに姿は見えない。けれど、気配を追えばすぐに見つかった。ほんの少し後方で硬く立ち止まっている。覗けば、追い詰められた表情(かお)をしていた。

(さて、あのこはどうするだろうかな)

思わず舌なめずりをして、力を使う。今の自分の顔はとても、愉悦に染まって、随分意地の悪い顔をしていることだろう。誰にも楽しみを邪魔されないために見晴らしのよさそうな塔へと転移する。
己を飼う人外に助けを呼ぶか、これを好機とみて逃げ出すか。
人は迷う。それゆえに厭きない。
素直に助けを求めて、名を呼べば可愛がって甘やかしてやろう。
逃げるならば、捕まえて逃げるなど考えることすら出来ないようにしてやろう。
端から手放す気などありはしないのだから。
塔の上部。目を閉じて少女を視る。
人の流れに沿って前へと進んでいく少女は良く人にぶつかっている。慣れていないと、一目でよく分かる。
それもそうか、と哂う。
かつて少女の住んでいた街はこれほどまでに大きくな市場もなかったし、特に目立つ産業もなかった。(だからこそ、町の住人は人在らざる男に助けを求めて、少女を差し出したわけだが)
更に言うなら、少女は男のもとに来てから一度も人里へと出たことはない。人の来ることなどない男の住居にずっといた。なれていないのは当然のことだ。
このままでは、街のならず者に絡まれるのも時間の問題だろう。なんと言っても少女は美しい。神がかった美しさに匂い立つ色気。成熟しきっていない体も、それすら劣情を誘う一因としかなりえない。そして、俗世に生きているとは思えない(本人の自覚は当然なく)浮世離れしている雰囲気。これだけ揃っていれば人攫いも、ならず者もこぞって寄ってくるだろう。
そんな奴らに絡まれれば、普通の少女はすぐに助けを呼ぶ。街の住人に、友人に、家族に売られた少女が今現在助けを呼ぶ相手は私だけだ。他には誰もいない。他ならない自分が、そうした。
けれど、あの少女が素直に助けを呼ぶとは到底思えない。少女は強情であり、強かで、気高い。
だからこそ、簡単に名を呼ぶとは思ってない。否、思わない。
簡単に口に出す時点で、その少女は己が知る愛し子ではない。



***



「よう、お嬢ちゃん。俺たちが街ん中を案内してやるよ」
「そうそう、楽しいところをなぁ」
ひゃははは、と笑う低脳な男たちに少女は辟易していた。
いつもこうだ。内心で臍をかむ。外に出るたびにそうやって男たちは少女に絡んだ。年を増すごとに数は増えて、代わりに友人は減っていった。そして、最後に捨てられた。
「離して」
キっと、睨みつけても男たちは怖い怖いと、おどけるだけ。掴んだ腕を開放する気は全く見えない。
「大人しくしとけよ、お嬢ちゃん。悪いようにはしねぇからさ」
「うるさいわね! さっさと離して。あんたたちみたいな屑に構っている暇なんてないのよ」
力を込めて勢い良く腕を振り払えば、拘束されていた手は離された。変わりに長く綺麗に伸ばされた爪が男の一人を傷つける。
「このアマ! こっとが下手に出ていりゃいい気になりやがって!!」
ありきたりな台詞だと思いながらも、裏路地に引きずり込まれそうになって抵抗する。けれど相手は屑だとしても大の男。それも三人。少女はすぐに路地に引きずり込まれ、転ばされる。
「さ〜て、物を知らないお嬢ちゃんにきーっちっ、」
「へ?」
「あ……」
「ああ、一人逃してしまったか」
「うぎゃああああああああああ、お、おれの」
一番少女に接近していた男は全身を切り刻まれ、ぐしゃっと音を立てて地面に落ちる。二人目はそれよりましな程度で死んだことには変わらない。
残った一人は切られた腕を見て絶叫して、痛みに転がりまわっている。
一瞬で出来た惨状に少女は腰を抜かして呆然と座り込む。頭から血を浴びた少女の周囲は地だまりが出来ているせいで、全身が血塗れになってしまった。
ああ、汚れてしまったね、と柔らかく笑う男の姿は酷く異質だった。眸をギラギラと輝かせて、己が作った惨状を笑っている。
うるさいな、と呟いて生き残っていた男を瞬時に黙らせた。殺したわけではない。現に、そのチンピラだった男は苦しげにもがいている。
血走った目を向けられて少女はひっ、と息を詰まらせた。それを見た男は煩わしげに目を細めた後、ようやくチンピラを殺したやった。
「心配したよ」
「ご、ごめんなさい」
男と目を合わせるのが怖くて少女は俯いた。けれどすぐに男が少女の顎に指をかけて上向かせる。
「呼べば来る、私はお前にそう言ったと思うんだけど」
「ごめんなさい」
「謝罪が欲しいわけじゃないんだよ。私のフェノーリア、君は私の名前を覚えていないのかな?」
「そういう、わけじゃない」
「なら、言ってごらん」
言いづらそうに、一度目を伏せる。何度か逡巡した後、ようやく顔を上げて少女は人外に目を合わせて音を声に乗せた。
「マルクス」
「良く出来ました」
にっこりと満面の笑みを浮かべたマルクスは座り込んだままの少女を抱き上げる。
「ここは陽が当たらなくていいね。女の子には太陽に光は大敵だよ」
肌が荒れるのはいただけないからね、と笑う男に少女は微動だにできない。ただ、ただ恐怖に震えた体をマルクスの体に押し付けた。





あとがきっぽいもの

あー楽しかった。必死に29日に上げようともがいたけどムリだった。
身長差、年齢差がある組み合わせで抱き上げるのはいたく萌えます! 抱っこ!!
そしてやっぱり流血表現。あれ? はじめから無かったのに。
そして名前だし。マルクス=王 だそうで、なんとなく。ちなみに少女の名前はフェノーリアじゃありません。
私の〜は決まり文句的なものです。意味は続きか何かで。
四分割されているうちの2コ目と3コ目は授業中に書きました。楽しかった