ヴー、ヴー、

ピッ!

「海を見たいの」
遮光カーテンに日光を遮られた薄暗い室内。もそり、と起き上がる影が一つ浮かび上がる。
「……は?」
朝イチの彼女でもない同僚の猛禽類好き女(そもそもこんな非常識な女を彼女にしようなど、天地が逆転しても思わん。後日談)より掛かってきた電話によって彼は強制的に起きることを余儀なくされた。


03 さざなみ


電話から約2時間後の現在、彼と彼に電話を掛けた彼女は空の上にいる。
シュラキア達が現在拠点に住んでいる国は内陸部にある。大きな湖はあっても海はない。
よって、海を見るには国を移動することになるのだが、
「なんだって、わざわざカリブ海まで行くことになっているんだ」
しかも自家用ジェットで、と疲労困憊具合が見て取れるアルスの向かいには当然シュラキアが座っている。いつもよりラフな格好のアルスに対して、こちらはバカンス仕様だ。
「いいじゃない。せっかく夏なのに遊ばなきゃ損よ。あ、ちゃんとあんたの分も有給申請しといたから」
「……、はぁー」
大きく息をついて、ソファーに深く座りなおす。手を出せば給仕が酒を差しだしてきた。さすが、シュラキアが手配した代物だ。
「で、なにがあった?」
致せり尽くせりに揃えた本人は搭乗からずっと窓の外を向いたままだ。手に持っているグラスも、減った様子はなく手遊びにくるくる、くるくる回しているだけ。
「いきなりなによ」
ぎょっとした顔でアルスの方に向き直るシュラキア。
「指先のマニキュアが欠けてるぞ。お前らしくも無い」
享楽者のように振る舞い、何事もいい加減そうな(実際、そういうところも多分にある)シュラキアだが、仕事と趣味に関しては一切手を抜かない。もう、抜かなさ過ぎて周囲が追いつけないぐらいには手を抜かない。
一言で言えば、目の前の傲慢な美を現す女は己を磨くことに余念がないということだ。仕事だろうがプライベートであろうが、関わりなく。
よって、シュラキアが小さくとでも、己を損なわすには十分が瑕疵を放置しままというのが異常事態だ。
「ええ、そうね。全くもって私らしくないから付き合ってよ。いつものわがまま。海が見たいの。本当にそれだけ。見たらちゃんとできるから、ネ?」
泣いた、ように見えた。
小首を傾げて、お願いと言うシュラキア。
だからいいぞ、と頷いて、またそれぞれ違う方向を向いて、着陸するまで目を合わせなかった。



***


ばっしゃ、

ばっしゃ、ばっしゃ、


ばっしゃ、ばっしゃ、ばっしゃ、



波打ち際をシュラキアは厭きもせず蹴り上げる。
綺麗に弧を描いて、キラキラ、水は飛んでいく。
繰り返し水を蹴り上げているシュラキアの遥か後方、砂浜の上にはシュラキアに強制的に着させられたバカンス向けの服を纏ったアルスが待っている。持て、と突きつけられたのはこの間買い物に付き合わされた際にシュラキアが購入したサンダルだ。
威圧感満載に命令されて、アルスは大人しくそのサンダルを後ろ手に持っている。
「おーい、そろそろコテージに行かないか? シュラキア!」
夕暮れ。
空も海も真っ赤に染まって、世界が血に沈んだように見える。
その中で未だに海と戯れているシュラキアもまた、、金色の髪に死にぞこないの太陽の残り火が反射して血に濡れたように赤い。
来ている服が、赤というのも手伝って、禍々しくて仕方がない。
「先に行ったら? 場所は知っているから放っておいていいわよ」
少なくともあんたより強いから平気、と続けるシュラキアの顔は逆行で見えない。
「なにがしたいんだ。お前は」
いきなり連れ出して、海に来て、放っておけと言うその行動に一貫性がない。いつものことか、と諦めて待つ。
まろい体。女らしい、その肢体には人を殺す術が極限にまで練磨されている。
「だから言ったじゃない。海が見たいって」
ひいてはきて、オレンジ色(どうしても血の色に見えるのは職業柄だと信じている)の海を見て、戯れて、シュラキアは空を仰いだきり動きを止めた。すとん、と腕の力を抜いて、上を見上げる。
「人は、一体なにになれるのかしらね? 死んだら、ただの蛋白質の固まりになって最後は土に返るけど、生きている間はなにになろうとしているのかな」
「言っている意味が良く分からないんだが」
「あはは、私も分かってないわよ」
「なんなんだよ、お前は」
やたらめったら深刻そうな声音で言われた内容は理解できない代物で、次に返された言葉は妙に陽気で 脱力する。そして、流れる冷や汗。伊達に何年もシュラキアのパートナーをしているわけじゃない。
「ここに来る前って言うか、あんたに電話掛ける前にね、」
「ああ」
そういえば、掛かってきた電話越しの声は一切の感情が消えていたような気がしたな、と思い返した。
「襲われたのよ」
「お前も敵が多いからな。さすが有名人」
「まぁね。勿論、私が傷を負うなんて間抜けなことなんてなかったんだけど、」
「そりゃお前が怪我するなんて、滅多にあることじゃないだろ。何年前だ? お前が大怪我して入院したの?」
「七年前よ。あの頃は若かったわ。ズッタズタにされたし、あいつも容赦ないわよね。人のこと言えないけど。そうじゃなくて、その襲ってきた男は何で来たのかなって思ってしまったわけよ」
「なんで」
「なんで、って。あー、きっと笑ってたからな気がする。私を襲ってきた馬鹿な男が、返り討ちにされて、死んで、なのに幸せそうに笑ってたの」
まだ、シュラキアは空を見上げたままだ。ずっと、こちらに背を向けて、ひたすら空を見ている。赤い黄昏を見つめたまま、ざぶざぶと海の中を進んでいる。
「知っている奴か」
そうでもなければ、これほどシュラキアの中に残らない。十人殺そうが、百人殺そうが、男だろうが女だろうが、子供だろうが老人であろうが、シュラキアの中に存在することなど出来ない。
「彼氏、かねぇ」
「二週間前にショッピングモールを一緒に回っていた男か?」
「そうそう。仲は悪くなかったつもりなんだけどなぁ」
心底分からないというように、首を傾げて、笑う。首は疲れたのか、見上げるのをやめて前を向いている。
「殺して始めて誰か分かった、わけか」
「まさか」
「は?」
ああ、シュラキアにも人間らしい感傷はあったんだな。と場違いにも感動していれば、完全なる否定が帰ってきた。人の感動を返してくれ。そして、お前に当たり前を求めるのは間違ってたな。
「身近な人間の動きぐらい覚えているわよ」
「お前が殺したんだよな」
「もちろん。襲ってきたんだもの、当然でしょ」
「確かにな。……もしかして、お前の男ってお前に執着してた?」
「普通じゃない? 普通の男と女。あの男は私の職業なんて知らなかったんだろうけど」
なんで、と聞かれる。なんとなく一度だけ見た曖昧なシュラキアの男の姿が、鳥籠の少女を見つめるボスに似ていたから、とは何故か言えなかった。
代わりに、
「お前を愛してたからじゃないのか」
「愛しているから、誰のものにもしたくないから殺す?」
綺麗過ぎない? と笑いを堪えるのが伝わってきた。ありきたりだなぁーと小さく零れた声。
「じゃなくて、お前の中に一生残るためじゃないのか」
「まさか。そんな阿呆な男と付き合う女だと私を馬鹿にしているの?」
「そんな真似誰が怖くてするか」
シュラキアを敵に回すなんて、御免被る。二度としたいと思わない。まぁ、そう思うことになる一度目の体験が現在の関係を形どっているわけだが、まさに若さゆえの過ちといいたくなる。十代前半だったんだし。
「じゃあ、なんでそんなこと言うのよ」
「だって、お前普通に別れたらなんとも思わなくなるだろ」
「当たり前じゃない」
「ほら」
「アルス。貴方は私をからかって楽しいの?」
「お前を真実からかえるんだったら誰でも楽しいと思うけどな」
本当にそう思う。こいつがからかわられる姿なんて想像できない。
「お前を心底愛していたんだか、惚れてたんだか知らないが、そいつはお前とずっと一緒に居れないと気付いて、どうやったらお前に覚えていてもらえるか考えたんだろ」
まぁ、良くある話だと思う。少なくても俺の近くでは
「私はどうすればいいのかしら」
「どうしたい?」
「分かんないから困って、私らしくなくなって、あんたを巻き込んでここにきているんだけど」
「ああ、そうだな。じゃあ、忘れろ」
「アルスって人でなしね。ここまで私に解説しておいて、そう言うの?」
「言うぞ。お前がいつまで経ってもふぬけたままだと、仕事に支障が出る。よって、原因を忘れろ、と仕事上のパートナーである俺は言う」
「なるほど」
それでいいかな、とシュラキアは笑って後ろに倒れこんだ。思わず、空を仰ぐ。すでに腰まで海に浸っいたシュラキアを引き上げるために、自分も海の中に入る。此の際濡れるのは仕方がない。どうせコテージに戻れば着替えがある。ほら、腕を差し伸ばせば、以外にも素直にシュラキアは応じた。そのまま力を込めて引っ張り上げて、シュラキアを抱えて海を出る。
「明日は仕事が入っているから、よろしくパートナー」
「バカンスって言ってなかったか?」
「休むと勘が鈍るの」
にっこり、と形容できそうな声になんとも脱力に誘われる。 「なるほど」
すぐさま荷物の確認を脳内でする俺にシュラキアに文句を言う権利は無いと、口を慎んだ。



シュラキアを荷物のように肩に担いで、コテージに向かうまでに歩いた砂浜で聞いたさざなみが、耳元で言われた仕事の話よりも、耳に残る。





あとがき

魍魎のハコ(漢字変換できない)上巻を読んだり、H2を読んだりしながら後半書いてたらこうなりました。
やっぱり人死にが出る。仕方がないか。この二人は人でなしだから。
もう、書いた本人がわけが分からない。予想よりもずっと長くなったよ
シュラキアは一過性
アルスは継続性
痛みの保ち方はそれぞれ